2012年1月24日火曜日

PFドラッカー365の金言より 164

<< 本文 >>  「新しい現実」
カリスマがはやりである。いたるところで論じられている。だが、カリスマ待望は集団的自殺行為である。カリスマを警戒せよ。
重要なことはカリスマ性の有無ではない。正しい方向に導くか、間違った方向に導くかである。20世紀における建設的な成果は、カリスマ性とは縁のない人たちによるものだった。

(コメント)
企業で相談を承っていると、シバシバ社長から「うちに優秀な社員さえいれば・・・」「どこかに優秀な社員はいないだろうか・・・」などとカリスマを求めるような声やボヤキを聞くことがあります。このような状態である限りは、他力本願ですから、その企業の業績が向上することは望めません。
ある会社での実話ですが、極めて営業力が高く社員へのリーダーシップも優れている人が幹部として入社しました。数年後にはその人を社長にすることになりましたが、それから更に数年経ったときにオーナーが気づいたときには手遅れで、その会社はその優秀な人に乗っ取られてしまっていました。この優秀な人は、秀でた点も多くあったのですが、問題点もかなりあり、結局は社長を辞任してもらうことになりましたが、その後が大変です。その間、その優秀な人のワンマン経営であったため代わるべきリーダーが育っておらず社内が大混乱を起こしてしまいました。
大切なことは、カリスマ性のある人を求めて一機に問題や課題の解決を図ることではなく、身の丈に合ったやり方で着実に堅実に問題や課題を解決していき、そうすることで自らに力(能力)をつけていくことではないでしょうか?
歴史を振り返ってみると、ヒットラー、スターリン、ムッソリーニ、毛沢東などカリスマ的政治家と呼ばれる人達は、結局は害をもたらしたが社会を良くすることはできなかったように思います。

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