2012年2月25日土曜日

PFドラッカー365の金言より 195

<< 本文 >> 「変貌する産業社会」「マネジメント・・・課題・責任・実践」
部分は全体があって初めて意味をもつ。
企業とは、共同の事業へ自らの知識、技能、心身を投ずる人達からなる高度なシステム(有機体)である。
従って、部分の改善や効率化が全体の改善につながるとは限らない。部分の改善や効率化がシステム全体に害を与え、場合によってはシステムそものもを破壊することさえある。システム全体を強化する最善の方法が、ある特定の部分の弱体化、つまり曖昧化や非効率化であることさえある。重要なことは、技術的な効率ではなく、成長、均衡、調整、統合の結果しての「全体の成果」である。
部分の効率に重点をおくことは、システム全体にとって有害である。道具の正確さを追求して、全体の健全性と成果を犠牲にすることにもなる。

(コメント)
「ザ・ゴール」という本はボトルネックについて書かれています。A,B,Cの機械があり、製品をつくるときに、Aの次にB、Bの次にCの機械を使用する場合において、もしもBの製造能力が80個/時間(AとCは100個/時間)しか無く、A,Cより劣る場合に、もしも全ての機械が最大生産能力を発揮すると、AとBの間には時間あたり20個の仕掛在庫が累積していく。その結果、全体の製造成果は80個/時間となり、しかも仕掛在庫が増えるだけの結果に終わる。だから個々の製造能力を最大限発揮させても、それは必ずしも最適な結果をもたらさないということを小説として解説している書籍です。
先生のご指摘やこの小説の内容にあるように、部分の最大化・最適化は必ずしも全体の最大化・最適化という結果をもたらしません。会社組織の目的は、全体成果の最大化・最適化ですから、全体成果の最大化・最適化のために部分の最大化・最適化を図ることが必要です。
しかし、会社組織では役割を分担して仕事を遂行しますから、得てして部分成果の最大化・最適化に拘る傾向が強く、それが必ずしも全体成果の最大化・最適化をもたらさないことが多いのです。その為、「始点と視点を全体成果の最大化・最適化とすべきである」と説かれていると考えます。

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