<< 本文 >> 「未来への決断」
急速にネットワーク社会に向かいつつある。
そのため働く者の一人ひとりが、自らの配置に責任をもたなければならなくなる。このことは、「自らの強み」を把握し、「自らをマーケティング」しなければならなくなったことを意味する。
(コメント)
ご存じのように、現代はネットワーク社会となりつつあるのではなく、現代はネットワーク社会になっています。ですから、先生がご指摘されているように「自らの強み」を把握することが重要な時代となっています。そして、その強みを発揮できるように、その強みを必要としている人々を探すこと(マーケティング)が必要となっています。
世の中が細分化され専門化したため、人間一人が出来ることに限りがある時代となりました。そのために「連携」が必要であり、ネットワークを構築し活用することが不可欠な時代となっています。
情報がフンダンに手に入るようになり、人々が専門化した結果、自らの仕事を遂行するために必要となる情報と人がどこにいるのかを予め知っておくことが必要な時代です。変化のスピードが早い時代ですから、必要が生じてから探していたのでは間に合わなくなります。また全てのことを自らが予め習得しておくことは不可能な時代です。そのため、普段からネットワークを構築しておくことが大切です。
2012年3月21日水曜日
2012年3月20日火曜日
PFドラッカー365の金言より 219
<< 本文 >> 「明日を支配するもの」「ネクスト・ソサエティ」
先進国がリーダーシップを取り続けていくうえで鍵となるものは、知識のプロとしての知識労働者の社会的地位であり、社会的認知である。
知識労働者のマネジメントはマーケティグ的な仕事である。
マーケティングの基本はこちらが何を望むかではない。相手が何を望むか、相手にとっての価値は何か、目標は何か、成果は何かである。
知識労働者の動機付けはボランティアの動機付けと同じである。ボランティアは報酬を手にしない。それ故に仕事そのものから満足を得ければならない。何にもまして「挑戦の機会」をもたなければならない。
有能な社員には挑戦的な仕事を与えることが必要である。
(本文)
現代は、昔とは違い工場労働者(ブルーカラー)が少なくなり、事務系労働者(ホワイトカラー)が増えています。そのため、ブルーカラーを前提とした労務管理・人事管理が通用しなくなっています。ホワイトカラーは無意識のうちに自らを知識労働者と認識しています。時間から時間までを製造機械に向かい合って「モノ造り」をして生活の糧を得ていたブルーカラーとは異なり、ホワイトカラーは「モノ創り」をして自己満足・自己充足・自己実現を求めています。
ただし、ホワイトカラーの中にも「指示された作業をするだけの人」と「自らが考え人間としての仕事(創造)をする人」とがいることに注意することが必要です。
生活の糧を得る為にだけ働いている人であれば報酬のことを考えればことは足りますが、自己満足・自己充足・自己実現を求める人には報酬以外のことを考慮することが必要となります。その為には彼らに対してマーケティング的な発想(その人が求めているモノ・コトは何かを探り出すこと)から労務管理・人事政策を行っていくことが必要となります。そして、自己満足・自己充足・自己実現を求める人には「挑戦的な仕事」を与えることが必要になります。
ただし、本当に自己満足・自己充足・自己実現を求める人は、他人や上司から言われなくても、自らの仕事を挑戦的なものに自発的に変えていく傾向があります。それに対して、本当はそうでない人達は仕事をマンネリ化させ惰性・慣習として仕事を継続しようとする傾向がある点には留意すべきです。
先進国がリーダーシップを取り続けていくうえで鍵となるものは、知識のプロとしての知識労働者の社会的地位であり、社会的認知である。
知識労働者のマネジメントはマーケティグ的な仕事である。
マーケティングの基本はこちらが何を望むかではない。相手が何を望むか、相手にとっての価値は何か、目標は何か、成果は何かである。
知識労働者の動機付けはボランティアの動機付けと同じである。ボランティアは報酬を手にしない。それ故に仕事そのものから満足を得ければならない。何にもまして「挑戦の機会」をもたなければならない。
有能な社員には挑戦的な仕事を与えることが必要である。
(本文)
現代は、昔とは違い工場労働者(ブルーカラー)が少なくなり、事務系労働者(ホワイトカラー)が増えています。そのため、ブルーカラーを前提とした労務管理・人事管理が通用しなくなっています。ホワイトカラーは無意識のうちに自らを知識労働者と認識しています。時間から時間までを製造機械に向かい合って「モノ造り」をして生活の糧を得ていたブルーカラーとは異なり、ホワイトカラーは「モノ創り」をして自己満足・自己充足・自己実現を求めています。
ただし、ホワイトカラーの中にも「指示された作業をするだけの人」と「自らが考え人間としての仕事(創造)をする人」とがいることに注意することが必要です。
生活の糧を得る為にだけ働いている人であれば報酬のことを考えればことは足りますが、自己満足・自己充足・自己実現を求める人には報酬以外のことを考慮することが必要となります。その為には彼らに対してマーケティング的な発想(その人が求めているモノ・コトは何かを探り出すこと)から労務管理・人事政策を行っていくことが必要となります。そして、自己満足・自己充足・自己実現を求める人には「挑戦的な仕事」を与えることが必要になります。
ただし、本当に自己満足・自己充足・自己実現を求める人は、他人や上司から言われなくても、自らの仕事を挑戦的なものに自発的に変えていく傾向があります。それに対して、本当はそうでない人達は仕事をマンネリ化させ惰性・慣習として仕事を継続しようとする傾向がある点には留意すべきです。
2012年3月19日月曜日
PFドラッカー365の金言より 218
<< 本文 >> 「マネジメント・・・課題、責任、実践」
プロにとって最大の責任は、2500年前のギリシャの名医、ヒポクラテスの誓いの中にハッキリ示されている。「知りながら害をなすな」である。
医師、弁護士、ビジネスマンのいずれであろうと、顧客に対して必ず良い結果をもたらすとの保証を与えることはできない。最善を尽くすことしかできない。しかしながら、知りながら害をなすことはしないとの保証は与えなければならない。顧客となる者が、プロたる者は知りながら害をなすことはないと信じられなければならない。これを信じられなければ、何も信じられない。
従って、「知りながら害をなすな」との言葉こそ、プロとしての倫理の基本である。
(コメント)
契約には請負契約、委任契約ほかの契約があります。請負契約は成果に対して責任をもつものであり、委任契約はプロセスに対して責任をもつものです。PFドラッカー先生は委任契約を前提に語られているようです。そして、実務では環境を含めた状況が刻々と変化していきますから、成果に対して責任をもてれば良いのですがそれを保証することは難しいものがあります。そのため、せめてプロセスに対して責任を負うことが必要です。そして、そのときに最低限必要となるのが上記の「プロとして知りながら害をなすな」という考え方です。
これは私のような士業に限らず、サラリーマンの人達にも要求される事柄です。宮仕えと言われるサラリーマンといえども給与というお金をもらっている限りは「プロ」なのですから甘えは許されません。
プロにとって最大の責任は、2500年前のギリシャの名医、ヒポクラテスの誓いの中にハッキリ示されている。「知りながら害をなすな」である。
医師、弁護士、ビジネスマンのいずれであろうと、顧客に対して必ず良い結果をもたらすとの保証を与えることはできない。最善を尽くすことしかできない。しかしながら、知りながら害をなすことはしないとの保証は与えなければならない。顧客となる者が、プロたる者は知りながら害をなすことはないと信じられなければならない。これを信じられなければ、何も信じられない。
従って、「知りながら害をなすな」との言葉こそ、プロとしての倫理の基本である。
(コメント)
契約には請負契約、委任契約ほかの契約があります。請負契約は成果に対して責任をもつものであり、委任契約はプロセスに対して責任をもつものです。PFドラッカー先生は委任契約を前提に語られているようです。そして、実務では環境を含めた状況が刻々と変化していきますから、成果に対して責任をもてれば良いのですがそれを保証することは難しいものがあります。そのため、せめてプロセスに対して責任を負うことが必要です。そして、そのときに最低限必要となるのが上記の「プロとして知りながら害をなすな」という考え方です。
これは私のような士業に限らず、サラリーマンの人達にも要求される事柄です。宮仕えと言われるサラリーマンといえども給与というお金をもらっている限りは「プロ」なのですから甘えは許されません。
2012年3月18日日曜日
PFドラッカー365の金言より 217
<< 本文 >> 「すでに起こった未来」
西洋の基本公理では、倫理すなわち個々人の道徳は、王子にも乞食にも、富者にも貧者にも、強者にも弱者にも同じように適用されるとする。キリスト教の伝統においては、倫理とは平等性の確認である。神、自然、社会のいずれを創造主としようが関係ない。適用すべき倫理は一つ、道徳は一つ、行動基準は一つである。
しかるに企業倫理は、この基本公理を否定する。従って、企業倫理なるものは、西洋の哲学と神学にいう倫理ではない。今日の企業倫理は、いかなる理由からか、倫理にかかわる一般のルールは企業に適用されないとする。それでは企業倫理とは何か?
西洋哲学の歴史家であれば、企業倫理とは決疑論だと答える。決疑論は、支配者たる者は、個人として求められる倫理と国家に対する責任とのバランスを図らなければならないとする。
決疑論=倫理と義務の選択において義務を上位に置く理論
つまり普通の人に適用されるルールは、社会的な責任をもつ者には適用されないということである。彼らにとって、倫理とは、個としての良心と、地位による責務との考量によって定まるべきものである。即ち、支配者は支配される者の利益を優先すべきであるが故に、一般の倫理を免除されるとする。
(コメント)
非常に難しい先生からの問いかけです。
しかし、先生は日本の慶応義塾大学で学ぶことで福沢諭吉翁の思想、渋沢栄一翁の思想を始め、中国「論語」の影響を大変に受けている大の日本ファンであったと聞き及びます。一昔前の日本的経営をアメリカに紹介した先生でもあります。そして、ドライな経営を行うと思われているアメリカ企業でも、老舗は意外と日本的経営を行うことでヒトを大事にし、善悪を重視している点にも留意すべきです。日本のバブルが弾けた後に、アメリカから金融資本的な考えを基にした経営学が導入されていましたが、数年前に発生した世界的金融危機の事実からして、その経営学の基礎的部分(倫理)が間違えであったことは既に証明されています。
私が若い頃に属していた「商業界」という団体の創設者の教えには「損得の前に善悪を考えよう」というのがありました。この考えは企業倫理を優先させる前にコトの善悪を考えるべきだと教えているのだと思います。
一昔前の日本的経営は、得てして損得を優先させた企業倫理を優先させてしまいがちな世情に対して、家族的経営としての絆を重視し、何とか企業倫理よりも個人倫理と集団倫理を優先させようとしていました。老舗の家訓を垣間見ると、名門と呼ばれて永年生き延びている企業には必ずと言って良いほど企業倫理よりも人としての道(個人倫理と集団倫理)を優先させるべきことが記述されています。
是非一度、解説書でも良いですから「論語」を読まれることをお勧めします。論語には君子のあるべき姿、君子に仕えて人の上に立つ者(上司)のあるべき姿が描かれています。
西洋の基本公理では、倫理すなわち個々人の道徳は、王子にも乞食にも、富者にも貧者にも、強者にも弱者にも同じように適用されるとする。キリスト教の伝統においては、倫理とは平等性の確認である。神、自然、社会のいずれを創造主としようが関係ない。適用すべき倫理は一つ、道徳は一つ、行動基準は一つである。
しかるに企業倫理は、この基本公理を否定する。従って、企業倫理なるものは、西洋の哲学と神学にいう倫理ではない。今日の企業倫理は、いかなる理由からか、倫理にかかわる一般のルールは企業に適用されないとする。それでは企業倫理とは何か?
西洋哲学の歴史家であれば、企業倫理とは決疑論だと答える。決疑論は、支配者たる者は、個人として求められる倫理と国家に対する責任とのバランスを図らなければならないとする。
決疑論=倫理と義務の選択において義務を上位に置く理論
つまり普通の人に適用されるルールは、社会的な責任をもつ者には適用されないということである。彼らにとって、倫理とは、個としての良心と、地位による責務との考量によって定まるべきものである。即ち、支配者は支配される者の利益を優先すべきであるが故に、一般の倫理を免除されるとする。
(コメント)
非常に難しい先生からの問いかけです。
しかし、先生は日本の慶応義塾大学で学ぶことで福沢諭吉翁の思想、渋沢栄一翁の思想を始め、中国「論語」の影響を大変に受けている大の日本ファンであったと聞き及びます。一昔前の日本的経営をアメリカに紹介した先生でもあります。そして、ドライな経営を行うと思われているアメリカ企業でも、老舗は意外と日本的経営を行うことでヒトを大事にし、善悪を重視している点にも留意すべきです。日本のバブルが弾けた後に、アメリカから金融資本的な考えを基にした経営学が導入されていましたが、数年前に発生した世界的金融危機の事実からして、その経営学の基礎的部分(倫理)が間違えであったことは既に証明されています。
私が若い頃に属していた「商業界」という団体の創設者の教えには「損得の前に善悪を考えよう」というのがありました。この考えは企業倫理を優先させる前にコトの善悪を考えるべきだと教えているのだと思います。
一昔前の日本的経営は、得てして損得を優先させた企業倫理を優先させてしまいがちな世情に対して、家族的経営としての絆を重視し、何とか企業倫理よりも個人倫理と集団倫理を優先させようとしていました。老舗の家訓を垣間見ると、名門と呼ばれて永年生き延びている企業には必ずと言って良いほど企業倫理よりも人としての道(個人倫理と集団倫理)を優先させるべきことが記述されています。
是非一度、解説書でも良いですから「論語」を読まれることをお勧めします。論語には君子のあるべき姿、君子に仕えて人の上に立つ者(上司)のあるべき姿が描かれています。
2012年3月17日土曜日
PFドラッカー365の金言より 216
<< 本文 >> 「傍観者の時代」
責任なき権限に正当性はなく、権限なき責任にも正当性はない。
アメリカの巨大自動車会社のGMのCEOであるスローンにとっては、社会的責任なるものはプロ的でないだけでなく、無責任であって権力の濫用ともいうべきものだった。
私(PFドラッカー)が出席していたある社外の会議において、ある会社のCEOが「我々には高等教育に責任がある」と発言したのに対し、スローンは「それでは我々はどのような権限をもっているのか?」と問いかけ、「権限はない」との答えを得るや、「それなら責任について話するのはやめようではないか。権限と責任とは対である。権限を持ちたくない、また持つべきではないというのであれば、責任についても言ってはならないと思う。逆に責任をもちたくない、また持つべきではないというのであれば、権限について言ってはならないと思う」と言った。
スローンはこの考えをマネジメントの原則としていた。もちろんこれは政治理論と政治史が最初に教えることである。責任なき権限に正当性はなく、権限なき責任に正当性はない。いずれも専制の原因となる。
スローンはプロのマネジメントとして権限を求めたが、プロとしての責任も負っていた。彼は、その権限をプロとしてのマネジメントの領域に限定し、他の領域では責任をもつことを拒否していた。
(コメント)
実務として各社の相談を承っていて一番困るのが、責任は持たないが権限を持ちたがる人が多いことです。責任を他の人に転化してしまうのです。
中国の論語にも「過ちて、過ちを正さざるを過ちという」と記されています。人間ですから、過ちはつきものです。しかし、過ったときに責任から逃れようとするのではなく、素直にその過ちを認めて正すこと、他責とせずに自責とすることが大切です。
誤ったときに責任を取ろうとせず、一方で権限ばかりを振りかざしていると、それは専制君主体制となってしまいます。
実はアメリカの本当のエリートは、中国の論語や兵法を学んだことのある人が多いのです。
責任なき権限に正当性はなく、権限なき責任にも正当性はない。
アメリカの巨大自動車会社のGMのCEOであるスローンにとっては、社会的責任なるものはプロ的でないだけでなく、無責任であって権力の濫用ともいうべきものだった。
私(PFドラッカー)が出席していたある社外の会議において、ある会社のCEOが「我々には高等教育に責任がある」と発言したのに対し、スローンは「それでは我々はどのような権限をもっているのか?」と問いかけ、「権限はない」との答えを得るや、「それなら責任について話するのはやめようではないか。権限と責任とは対である。権限を持ちたくない、また持つべきではないというのであれば、責任についても言ってはならないと思う。逆に責任をもちたくない、また持つべきではないというのであれば、権限について言ってはならないと思う」と言った。
スローンはこの考えをマネジメントの原則としていた。もちろんこれは政治理論と政治史が最初に教えることである。責任なき権限に正当性はなく、権限なき責任に正当性はない。いずれも専制の原因となる。
スローンはプロのマネジメントとして権限を求めたが、プロとしての責任も負っていた。彼は、その権限をプロとしてのマネジメントの領域に限定し、他の領域では責任をもつことを拒否していた。
(コメント)
実務として各社の相談を承っていて一番困るのが、責任は持たないが権限を持ちたがる人が多いことです。責任を他の人に転化してしまうのです。
中国の論語にも「過ちて、過ちを正さざるを過ちという」と記されています。人間ですから、過ちはつきものです。しかし、過ったときに責任から逃れようとするのではなく、素直にその過ちを認めて正すこと、他責とせずに自責とすることが大切です。
誤ったときに責任を取ろうとせず、一方で権限ばかりを振りかざしていると、それは専制君主体制となってしまいます。
実はアメリカの本当のエリートは、中国の論語や兵法を学んだことのある人が多いのです。
2012年3月16日金曜日
PFドラッカー365の金言より 215
<< 本文 >> 「未来への決断」
社会貢献活動においても、本業を見失わないことが大切である。
資本コスト以上の利益をあげられない企業は、社会的に無責任である。社会の諸資源を浪費している。利益とは、それがなければ他のいかなる責任も果たせず、よき雇用者にも、よき市民にも、よき隣人にもなれないというものである。
だが、経済的な利益だけが企業の唯一の責任ではない。組織なるものは、従業員、環境、顧客、その他何者に対してであれ、自らがかかわりをもつあらゆるものに対して与えるインパクトについて責任がある。それが組織の社会的責任である。
加えて社会は、社会の病そのものに取り組むことも組織に求める。ただし、この点に関しては慎重でなければならない。意図が良くとも社会的責任を果たしたことにはならない。本来の目的を遂行する能力を傷つけるような責任を受け入れたり、買って出たりすることは無責任である。能力のない分野で行動することも無責任である。
(コメント)
本来の役割を果たしたうえで、それを上回る社会貢献をするのならば良いが、本来の役割を果たさずに社会貢献を図ることは無責任であるという意味だろうと思います。
企業の役割・責任とは、資本コスト(給与以外に減価償却・銀行金利・株主配当ほかを含む)を上回る利益をあげることです(中長期的に利益をあげること)。ただし、資本コストを上回る利益を上げる行動を企業がとることに伴い生ずる社会的インパクトに配慮することも必要です。
社会は企業に色々なことを要求してきますが、資本コストを上回る利益を上げること、および社会的インパクトに配慮することから逸脱し、それらを阻害するようなことまでを企業は引き受けてはならないのです。
常に、「自らが果たすべき役割」を認識し、その責任を果たすことが大切であると先生は言われています。しかし、日常生活においては、人間関係やその場の雰囲気から、ついつい惰性に流されてしまうことが多いので注意したいものです。
社会貢献活動においても、本業を見失わないことが大切である。
資本コスト以上の利益をあげられない企業は、社会的に無責任である。社会の諸資源を浪費している。利益とは、それがなければ他のいかなる責任も果たせず、よき雇用者にも、よき市民にも、よき隣人にもなれないというものである。
だが、経済的な利益だけが企業の唯一の責任ではない。組織なるものは、従業員、環境、顧客、その他何者に対してであれ、自らがかかわりをもつあらゆるものに対して与えるインパクトについて責任がある。それが組織の社会的責任である。
加えて社会は、社会の病そのものに取り組むことも組織に求める。ただし、この点に関しては慎重でなければならない。意図が良くとも社会的責任を果たしたことにはならない。本来の目的を遂行する能力を傷つけるような責任を受け入れたり、買って出たりすることは無責任である。能力のない分野で行動することも無責任である。
(コメント)
本来の役割を果たしたうえで、それを上回る社会貢献をするのならば良いが、本来の役割を果たさずに社会貢献を図ることは無責任であるという意味だろうと思います。
企業の役割・責任とは、資本コスト(給与以外に減価償却・銀行金利・株主配当ほかを含む)を上回る利益をあげることです(中長期的に利益をあげること)。ただし、資本コストを上回る利益を上げる行動を企業がとることに伴い生ずる社会的インパクトに配慮することも必要です。
社会は企業に色々なことを要求してきますが、資本コストを上回る利益を上げること、および社会的インパクトに配慮することから逸脱し、それらを阻害するようなことまでを企業は引き受けてはならないのです。
常に、「自らが果たすべき役割」を認識し、その責任を果たすことが大切であると先生は言われています。しかし、日常生活においては、人間関係やその場の雰囲気から、ついつい惰性に流されてしまうことが多いので注意したいものです。
2012年3月15日木曜日
PFドラッカー365の金言より 214
<< 本文 >> 「創造する経営者」
最も重要な昇進とは、トップマネジメントが選ばれる母集団への昇進である。
本当の貢献を必要とするのであれば、それらの貢献を行った人たちに報いなければならない。人事とくに昇進の人事が、組織が信じているもの、望んでいるもの、大事にしているものを明らかにする。昇進は、言葉よりも雄弁に語り、数字よりも明確に真意を明らかにする。
最も重要な昇進とは、本人にとっての最初の昇進ではない。逆にトップマネジメントとなる最終的な昇進でもない。トップマネジメントの地位には、すでに選ばれた人達の中から昇進していく。最も重要な昇進とは、明日のトップマネジメントが選び出される母集団への昇進である。トップマネジメントが選び出される母集団に属する人達は、事業全体のために働く。
(コメント)
誰をどの地位につけるかは、会社の考えている事、やろうとしている事、価値観などを物語ります。しかし、それらとは関係なく地位を乱発している会社をよく見受けます。長年勤めた功労に報いるために・・・、昇給させてやりたいが原資がないので昇給の代わりに昇格だけさせる・・・、一時的ながら多大な功績をあげたから・・・などです。しかしながら、こんなことをしていると、いずれは会社組織が崩壊してしまいます。
地位には権限と責任が伴い、一定の役割を担うものです。その能力が無い者をその地位に着けることは、一見すると慈悲深いようですが、本当は無慈悲であり、本人のためにも、会社のためにも、また他の従業員のためにもなりません。
そして特に重要なのが、経営責任の一翼を担う経営幹部の集団に誰を任命するかです。私の顧問先は中小・中堅企業が多いので、部長職以上を経営幹部の集団と捉えるようにしています。そして、課長職以下の人達は担当した課のことを中心にその運営を図れば良いのですが、部長職以上になると担当部門の事の前に全社のことを考えることが必要となると指導教授しています。係長から課長になるときの溝と課長から部長になるときの溝は、係長から課長になるときの溝が日本と中国程度の差であるとすると、課長から部長になるときの溝は月と地球位の差があります。従って、人選することが大切です。
最も重要な昇進とは、トップマネジメントが選ばれる母集団への昇進である。
本当の貢献を必要とするのであれば、それらの貢献を行った人たちに報いなければならない。人事とくに昇進の人事が、組織が信じているもの、望んでいるもの、大事にしているものを明らかにする。昇進は、言葉よりも雄弁に語り、数字よりも明確に真意を明らかにする。
最も重要な昇進とは、本人にとっての最初の昇進ではない。逆にトップマネジメントとなる最終的な昇進でもない。トップマネジメントの地位には、すでに選ばれた人達の中から昇進していく。最も重要な昇進とは、明日のトップマネジメントが選び出される母集団への昇進である。トップマネジメントが選び出される母集団に属する人達は、事業全体のために働く。
(コメント)
誰をどの地位につけるかは、会社の考えている事、やろうとしている事、価値観などを物語ります。しかし、それらとは関係なく地位を乱発している会社をよく見受けます。長年勤めた功労に報いるために・・・、昇給させてやりたいが原資がないので昇給の代わりに昇格だけさせる・・・、一時的ながら多大な功績をあげたから・・・などです。しかしながら、こんなことをしていると、いずれは会社組織が崩壊してしまいます。
地位には権限と責任が伴い、一定の役割を担うものです。その能力が無い者をその地位に着けることは、一見すると慈悲深いようですが、本当は無慈悲であり、本人のためにも、会社のためにも、また他の従業員のためにもなりません。
そして特に重要なのが、経営責任の一翼を担う経営幹部の集団に誰を任命するかです。私の顧問先は中小・中堅企業が多いので、部長職以上を経営幹部の集団と捉えるようにしています。そして、課長職以下の人達は担当した課のことを中心にその運営を図れば良いのですが、部長職以上になると担当部門の事の前に全社のことを考えることが必要となると指導教授しています。係長から課長になるときの溝と課長から部長になるときの溝は、係長から課長になるときの溝が日本と中国程度の差であるとすると、課長から部長になるときの溝は月と地球位の差があります。従って、人選することが大切です。
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