2012年3月18日日曜日

PFドラッカー365の金言より 217

<< 本文 >>  「すでに起こった未来」
西洋の基本公理では、倫理すなわち個々人の道徳は、王子にも乞食にも、富者にも貧者にも、強者にも弱者にも同じように適用されるとする。キリスト教の伝統においては、倫理とは平等性の確認である。神、自然、社会のいずれを創造主としようが関係ない。適用すべき倫理は一つ、道徳は一つ、行動基準は一つである。
しかるに企業倫理は、この基本公理を否定する。従って、企業倫理なるものは、西洋の哲学と神学にいう倫理ではない。今日の企業倫理は、いかなる理由からか、倫理にかかわる一般のルールは企業に適用されないとする。それでは企業倫理とは何か?
西洋哲学の歴史家であれば、企業倫理とは決疑論だと答える。決疑論は、支配者たる者は、個人として求められる倫理と国家に対する責任とのバランスを図らなければならないとする。
   決疑論=倫理と義務の選択において義務を上位に置く理論
つまり普通の人に適用されるルールは、社会的な責任をもつ者には適用されないということである。彼らにとって、倫理とは、個としての良心と、地位による責務との考量によって定まるべきものである。即ち、支配者は支配される者の利益を優先すべきであるが故に、一般の倫理を免除されるとする。

(コメント)
非常に難しい先生からの問いかけです。
しかし、先生は日本の慶応義塾大学で学ぶことで福沢諭吉翁の思想、渋沢栄一翁の思想を始め、中国「論語」の影響を大変に受けている大の日本ファンであったと聞き及びます。一昔前の日本的経営をアメリカに紹介した先生でもあります。そして、ドライな経営を行うと思われているアメリカ企業でも、老舗は意外と日本的経営を行うことでヒトを大事にし、善悪を重視している点にも留意すべきです。日本のバブルが弾けた後に、アメリカから金融資本的な考えを基にした経営学が導入されていましたが、数年前に発生した世界的金融危機の事実からして、その経営学の基礎的部分(倫理)が間違えであったことは既に証明されています。
私が若い頃に属していた「商業界」という団体の創設者の教えには「損得の前に善悪を考えよう」というのがありました。この考えは企業倫理を優先させる前にコトの善悪を考えるべきだと教えているのだと思います。
一昔前の日本的経営は、得てして損得を優先させた企業倫理を優先させてしまいがちな世情に対して、家族的経営としての絆を重視し、何とか企業倫理よりも個人倫理と集団倫理を優先させようとしていました。老舗の家訓を垣間見ると、名門と呼ばれて永年生き延びている企業には必ずと言って良いほど企業倫理よりも人としての道(個人倫理と集団倫理)を優先させるべきことが記述されています。
是非一度、解説書でも良いですから「論語」を読まれることをお勧めします。論語には君子のあるべき姿、君子に仕えて人の上に立つ者(上司)のあるべき姿が描かれています。

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